Riccardo Stracciari I (89003)

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Riccardo Stracciari I (89003)

RICCARDO STRACCIARI (1875 - 1955)

  1. Rossini - Il Barbiere di Siviglia; Largo al factotum (1925)
  2. Donizetti - Lucia di Lammermoor: Cruda, funesta smania (1925)
  3. Verdi - Nabucco: Chi mi toglie il regio scettro? (1925)
  4. Verdi - Nabucco: Dio di Giuda! (1925)
  5. Wagner - Tannhäuser: O tu bell'astro incantator (1925)
  6. Berlioz - La Dannazione Di Faust: C'era una volta (1925)
  7. Berlioz - La Dannazione Di Faust: Su queste rose (1925)
  8. Meyerbeer - Dinorah: Sei vendicata assai (1925)
  9. Meyerbeer - L'Africana: All'erta, marinar… Adamastor (1925)
  10. Massenet - Il Re di Lahore: O casto fior (1925)
  11. Ponchielli - La Gioconda: O monumento! (1925)
  12. Verdi - Otello: Inaffa l'ugola! trinca, tracana (1925)
  13. Verdi - Otello: Credo in un Dio crudel (1925)
  14. Verdi - Otello: Era la notte (1925)
  15. Leoncavallo - I Pagliacci: Si può? (1925)
  16. Puccini - Tosca: Tre sbirri… Una carrozza (1925)
  17. Puccini - Tosca: Ella verrà… Ha più forte sapore (1925)
  18. Puccini - Tosca: Già mi dicon venal (1925)
  19. O sole mio (Di Capua) (1925)

今日、ストラッチャーリをベルカント歌手の絶対的なエリートの一人に数えるとしても(歌手の伝記作家・ヘンリー・プレザンツは、他の有名な現代バリトンと比較すると彼の声は「その中で最も美しい声」と評している)、この判定は明らかにストラッチァーリのキャリアを通じて明確に支持を得ていたわけではない。上品でメタリックな声の響きとエネルギッシュな語り口は確かに尊敬されていたが、一方、彼特有の露骨なリアリズム[1]は一部で拒絶されていたのである。 マッティア・バッティスティーニ (89045, 89725) や ジュゼッペ・デ・ルカ ( 89036, 89073, 89135, 89560) のような偉大なベルカント歌手が支配していた分野で、ストラッチァーリは新しい要素を付加した。
カルーソーが妻ドロシーに宛てた手紙の中に、ストラッチャーリの表現手法を問題視する一節がある。ストラッチャーリの録音を聴く今日の人は、彼の解釈が現代のスタンダードであり誇張されたものではなく、むしろ慎重で貴族的なものであるため、その理由がわからないだろう。ストラッチャーリの歌唱には、大きくて豊かな音と輝かしい響きの他に、優れたパルランド唱法がある。ストラッチャーリの歌唱は、”in the mask”という手法の最良の例を示している。彼のパワフルで長く続く高音も注目に値する。フランツ・ヴェルフェルの詩的フレーズ:「大銅イーグル像のように高く舞い上がる」が最も正確な表現であると思われる。

リッカルド • ストラッチャーリはボローニャ近郊で生まれ、父親は有名な石彫家、彫刻家であった。最初に学んだのは技術分野で、工学のディプロマを取得した後、ボローニャ音楽院に入学した。特別な音楽的意図を持っていたわけではなくむしろ楽しみとして、時折、様々な劇場やオペレッタの公演に「合唱要員」や「スーパー」として参加していた。1899年、ペロージのオラトリオ「キリストの復活」の演奏で、最後のぎりぎりで ジュゼッペ・カシュマン の代役として一歩を踏み出すことになった。
この「試演」による成功の後、彼は歌の道に進むことを決意した。1900年、再びボローニャで、プッチーニの「ラ・ボエーム」のマルチェッロ役でオペラデビューを果たす。それからの数年間、この役だけが彼のレパートリーであり、イタリアのあらゆる劇場に出演した。最終的には役柄を増やし、イタリアのバリトンの中でも最もポテンシャルを秘めた存在となっていった。イタリアの歌劇場との契約だけでなく、イタリア国外(南米、スペイン、エジプト)でも成功を収めている。
1903年から1904年にかけてはリスボンとジェノヴァのアンサンブルのメンバーとして、「シベリア(ジョルダーノ)」、「フェドゥラ(ジモン・マイール)」、「グリセリディス(マスネ)」、「ファウストの劫罰(ベルリオーズ)」などに出演し、大成功を収めた。

1905年には「アイーダ」と「ラ・ワリー」を初めてスカラ座で歌った。メトロポリタン歌劇場は、1906年12月1日、「椿姫」( マルセラ・センブリッヒエンリコ・カルーソー と共演)でデビューしたが、当初はむしろ冷ややかに受けとめられた。一方、ロンドンのコヴェント・ガーデンでは、リゴレット、アモナズロ(アイーダ)、アシュトン卿(ランメルモールのルチア)、ドン・カルロ、ルーナ伯爵(イル・トロヴァトーレ)などの役で熱狂的な喝采を浴びた。以後、彼は頻繁に精力的なツアーを行った。ロシアでは何シーズンも、南米では9シーズンも歌い続けた。

1917年には、トスカニーニが結成したアンサンブルと共に、南北アメリカをツアーした。1917年11月26日、シカゴ・オペラハウスでリゴレット( アメリータ・ガリ=クルチ のジルダ)でデビューした。ここで彼はロッシーニの「フィガロ」を見事に演じ、最大級の成功を収めた。「フィガロ」はストラッチャーリが40年のキャリアの中で1000回近く歌った役である。彼は、南米、キューバ、スペイン、ロシアでの人気も満喫した。1936年に正式に舞台から引退したが、1944年までは、声楽家としての能力を十分に発揮しながら、公の場に姿を現し続けた。晩年は声楽教師として活躍した。バス歌手のボリス・クリストフ (Boris Christoff, 89554, 89684, 89713, 89734) は、彼の最も有名な弟子の一人である。
[Clemens Höslinger]

[1] 露骨なリアリズム;ヴェリズモに限定されない - - 原文;der krasse Realismus

リッカルド • ストラッチャーリは高音が素晴らしいと思います。低域から広域までメタリックな響きが均一で変わらず、理想的なバリトンではないでしょうか。近年、ドミンゴがバリトンで歌っていますが、彼のキャリアがバリトンから始まったとは言え、やはりドミンゴの声はテノールです。バリトンとしては物足りなさを感じます。ストラッチャーリは全ての声域で均質なバリトンの声を保っているので安心して聴けます。フィガロは1000回歌ったというだけあって芸達者なところを聴かせます。現代の歌手では珍しくない自由奔放なフィガロですが、当時は反発を受けたことがあったのかも知れません。
ワーグナーはまろやかです。別の星のワーグナーを聴いているようです。イタリア語歌唱だからではなく、ワーグナーがイタリアオペラの枠組みに取り込まれたかのようです。こんなのは認めないと言う人もいるかも知れませんが僕はイタリアオペラでも構いません。そういう歌唱を楽しみます。
イヤーゴは優しすぎるかも知れません。彼の上品な歌い回しはイヤーゴらしからぬイメージです。同じことはスカルピアにも当てはまります。朗々と歌い上げていてすごく立派なスカルピアです。これでも当時はリアリズムに過ぎるという批判があったというのですから、時が移れば受けとめ方も変わるものですね。僕はこういうスカルピアがあっていいと思います。

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