GERHARD HÜSCH (1901 - 1984)
- Der Musensohn ‘Goethe‘ (1934)
- Ständchen ‘Rellstab‘ (1938)
- An die Musik ‘Shober‘ (1938)
- Lied eines Schiffers an die Dioskuren ‘Mayrhofer‘ (1938)
- Widerschein ‘Schlechta‘ (1938)
- Wer sich der Einsamkeit ergibt ‘Goethe‘ (1938)
- Wer nie sein Brot mit Tränen ass ‘Goethe‘ (1938)
- An die Türen will ich scheichen ‘Goethe‘ (1938)
- Dass sie hier gewesen ‘Rückert‘ (1938)
- Liebeslauschen ‘Schlechta‘ (1939)
- Horch, horch, die Lerch' ‘Shakespeare‘ (1939)
- Erlkönig ‘Goethe‘ (1939)
- Der Doppelgänger ‘Heine‘ (1939)
- Abschied ‘Rellstab‘ (1937)
- Das Fischermädchen ‘Heine‘ (1937)
- Am Meer ‘Heine‘ (1937)
- Die Taubenpost ‘Seidl‘ (1937)
1 -13 with Hanns Udo Müller (Piano)
14 - 17 with Gerald Moore (Piano)
代表的なドイツ人歌手、代表的なドイツの声といえば、必然的にゲルハルト • ヒュッシュの名前が出てくる。その口調と心地良い声、知的な語り口によってヒュッシュは、リヒャルト・ワーグナーによって形作られたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの偶像のような、ドイツ人名歌手の原型である。
ゲルハルト • ヒュッシュはハノーファーに生まれ、ガルデレーゲンの アルトマルク(現ビスマルク)で育った。当初は俳優になりたいと思っており、19歳の時にハノーファーのレジデンツ劇場の演技生になったが、この頃からエムゲ教授のもとで歌の勉強も始めた。3年間のレッスンの後、彼は俳優に加えて、バリトンの小役やより大きな役も十分にこなせるようになっていた。2度目の雇用(オスナブリュック 1923/24)からは、歌手だけの契約になった。
ヒュッシュは1924年から1927年までブレーメン、1927年から1930年まではケルンに住んだが、1930年にベルリンで契約を結び1944年まで滞在して、ベルリン・ドイツ・オペラとベルリン国立歌劇場で歌った。ベルリンでの数年間、ヒュッシュは舞台キャリアの頂点にあった、まずは何よりもドイツオペラのレパートリーの中で、バリトンの大役の解釈において高い尊敬を得た。1930年から1938年まではベルリンから離れて、ロンドンのコヴェント・ガーデン・オペラの常任歌手として、ブルーノ・ワルターやサー・トーマス・ビーチャムなどの指揮者の下で大きな成功を収めた。1930年と1931年には、バイロイト音楽祭でアルトゥーロ・トスカニーニとジークフリート・ワーグナーの下、それぞれヴォルフラムを歌った。
客演では、ハンブルク、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーン、ミラノ・スカラ座などへのツァーに同行した。彼は劇場合奏団の熱心な主導者であったが、オールドスタイルの合奏団の理想が次第に薄れ始めたため、第二次世界大戦後はオペラの舞台に戻ることはなかった。
ヒュッシュの活動の中で歌のリサイタルはとても重要な位置を占めていた。彼は1930年にリサイタルを始め、すぐにドイツで最も優れたリートの解釈者の一人としての評判を得た。彼のコンサートプログラムは、主にドイツの古典的なリート作曲家に傾斜していたが、それだけではなく、シュトラウス、グレーナー、プフィッツナーなど、新しい時代の作曲家も多く取り入れられた。ヒュッシュとフィンランドの作曲家ユリエ・キルピネン (1892年~1959年) との間には親交があり、キルピネンの歌を最初にドイツに紹介したのはヒュッシュである。
ハンス・プフィッツナーとユリエ・キルピネンは、ヒュッシュのリサイタルではしばしばピアノを担当していたが、コンサートやレコーディングで最も多く伴奏を務めたのは、1943年に空襲で亡くなった指揮者の ハンス・ウド・ミュラーである。
ゲルハルト • ヒュッシュは、「美しき水車屋の娘」,「冬の旅」,「遥かなる恋人に」,「詩人の恋」という偉大な歌曲集の全曲を録音した最初の歌手の一人である。これらの歌曲集における解釈は芸術的な器が大きく、今でも他の歌手の歌唱を判断する上での一つの基準となっている。さらにヒュッシュはトップクラスのオラトリオ歌手でもあり、 ギュンター・ラミンが指揮をした J.S.バッハのマタイ受難曲の有名な録音では キリストを歌っている。
ヒュッシュはまた、キャリアの比較的早い段階で教師へ転向した;1938年にはミュンヘン音楽院の教授に就任し、舞台を離れた後の彼の主要な活動は若い歌手を育成することだった。彼はザルツブルクのモーツァルテウム、フィンランド、スイス、アメリカ、日本でマスタークラスを開いた。日本滞在中 (1952 - 53) には、オペラの舞台演出も手掛けた。
[Clemens Höslinger]
イタリア・オペラ系の歌手が10人続いて、久しぶりのドイツ系歌手であり、初めてのリートのCDです。ヒュッシュは日本とは馴染みの深い歌手なので懐かしいと感じる人も多いのではないかと思います、おもに僕よりも一世代上のドイツリートファンですね・・・とすれば、かなりの高齢の方ということになりますが。
このCDはオール・シューベルトです。この分野ではヒュッシュの後にディースカウがあまりにも大きな仕事をしたので、プロ、アマを問わず、シューベルトを聴いたり歌ったりする人は「ディースカウはこのように歌っている」、そして別の歌手は・・・という風になりがちです。ヒュッシュまで遡ることは少ないと思います。ですから、ディースカウをスタンダードとして聴いてきた人が初めてヒュッシュを聴くと、なんとなく頼りない、あるいは音楽がスカスカしていると感じるかも知れません。実際、ディースカウの歌唱は微塵も不安を感じさせない堅牢な建造物のようです。しかし「シューベルトはこうだ」という聴衆への強制は人を疲れさせます。長くは聴いていられません。もうひとつ、僕はディースカウの声が好きではありません。
ヒュッシュのシューベルトはとても自然で気持ちよく聴き通すことができます。このCDは1930年代の録音ですが、現代のシューベルトを聴いている人にとっては新鮮な発見もあると思います。もっと顧みられて良いシューベルトではないでしょうか。もちろんこの人以前のシューベルト、シューベルトの生きた時代まで遡ることができれば理想ですが、録音として残された歌唱で体系的に聴ける最古のリート歌手はヒュッシュです。
最後に、ライナーノーツの中で「有名な録音」との記述があった、ギュンター・ラミン指揮の バッハ:「マタイ受難曲」を聴いてみます。
1941年、かなり古い録音です。これより古い全曲盤としてはメンゲルベルクくらいでしょうか。ラミンは1952年にもう一度マタイ受難曲を録音していますが、これから聴くのはヒュッシュが参加している1941年の録音です。古色蒼然とした演奏を想像していましたが、そうでもありません。しかし、現代では優れたマタイ受難曲の録音がたくさんあるので、敢えて推薦すべき録音でもないと思います。
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