HEINRICH SCHLUSNUS (1888 - 1952)
- Marschner - Hans Heiling: An Jenem Tag (1935)
- Lortzing - Zar und Zimmermann: Sonst Spielt Ich (1937)
- Wagner - Tannhäuser: Blick' ich umher in diesem edlen Kreise (1935)
- Wagner - Tannhäuser: Wie Todesahnung dämm’rungVerdi - Der Troubadour: Ihres Auges himmlisch Strahlen (1937)
- Verdi - La Traviata: Hat dein heimatliches LandVerdi - Rigoletto: Feile Sklaven (1938)
- Verdi - Ein Maskenball: Ja, nur du hast dies Herz (1935)
- Verdi - Die sizilianische Vesper: In Glanz und Pracht (1933)
- Verdi - Simone Boccanegra: Adel, Plebejer, Genuas Volk (1933)
- Bizet - Carmen: Euren Toast kann ich wohl erwidern (1933)
- Borodin - Fürst Igor: Umsonst nach Ruhe sucht (1933)
- Tschaikowsky - Eugen Onegin: Sie schrieben mir (1934)
- Tschaikowsky - Pique Dame: als du zum Gatten mich erkoren (1932)
- LeonCavallo - Bajazzo: Schaut her, ich bin's (1935)
Mitglieder der Kapelle der Staatsoper, Berlin
Dirigenten: Leo Blech 1, 3, 4, 8, 13 & 15
Johannes Schüler 2, 5 & 6; Gerhard Steeger 7;
Alois Melichar 9 - 12 & 14
ハインリッヒ • シュルスヌスは1888年8月6日にライン川沿いの町、ブラウバッハで生まれた。彼は簡素な家庭に生まれ、中等教育を終えた後、ドイツの郵便局に入局した。短期間の声楽指導を受けた後、1912年6月14日、フランクフルトで「郵便局員・シュルスヌス」というコンサートのステージに初めて立った。フランクフルトの芸術パトロン、アルトゥール・フォン・ヴァインベルクとの出会いは、彼の成長にとって大きな意味を持っていた。彼のパトロンでありスポンサーでもある家の歓迎ムードの中で、シュルスヌスは彼の特徴である自然体を保ったまま、それまでの環境の枠を超えて一歩踏み出し、より大きな世界に足を踏み入れたのである。
何があろうと、シュルスヌスは自分の出自を否定することはなく、常にシンプルさを保っていた。第一次世界大戦では、1年間の志願兵として負傷し、身体障害者と宣告された。ニュルンベルクに移ってすぐの1915年、ハンブルク歌劇場の「ローエンングリン」で、彼は杖をつきながら王の伝令役でデビューを果たした。
ここで ロベルト • ヘーガー と クレメンス • クラウス の指導の下で数年間の見習い生活が始まり、彼は着実に技術を習得し、舞台での自信を得ることができた。当時、シュルスヌスはヴェルディの解釈においても優れていた。1917年4月22日、初めてニュルンベルクでリゴレットを歌った。彼はベルリンの支配人でもあるヒュルセン=ヘーゼラー伯爵によってヴィースバーデンに招かれ、「ファウスト」のヴァランタン役で客演、ベルリンへも「トロヴァトーレ」のルーナ伯爵役で招かれた。これがきっかけとなり、ベルリンのホーフオーパーに出演することになった。1917年9月2日、シュルスヌスは初めてここのアンサンブルメンバーとして「タンホイザー」のヴォルフラム役で登場し、これは伝説的な舞台となった。彼はすぐにこの劇場の主要メンバーの一人となり、1945年2月3日に破壊されるまでずっと所属していた。
彼の「リゴレット」、「ルーナ伯爵」、「ジェルモン」、「マルキ・ドゥ・ポサ」[2]、「モンフォール」[3]、「レナート」は、次の世代の歌手たちへの規範を打ち立てた。しかし、輝かしいオペラの世界は、彼の注目すべき音楽人生のひとつのフレームに過ぎない。彼はリートの世界でもすばらしい輝きを放っていたのである。
1918年4月、ハインリッヒ • シュルスヌスは初めてリンク通りのブリュートナー・ホールの舞台に立った。その後、2000回以上のリサイタルを行い、すでに伝説となっているシュルスヌスのスタイル - - - 模倣しようにもほとんど出来ないそのスタイル - - - が発展していくこととなった。かつてシュルスヌスが作曲家マルク・ローターに語ったように「曲が持つべき本質的なクオリティ、いわば自然なシンプルさを捉えるには」現代の知識主義では不十分であることは明らかだったのだ。
1919年にはすでにアムステルダムとオスロでの演奏活動を開始し、1922年にはバルセロナ、その後イギリス、フランス、オーストリア、バルカン半島、トルコへと、海外での演奏活動を重ねた。また、スイスでの毎年のリサイタルと、1949年に南アフリカツアーをしたことも言及しておかなければなるまい。
ハインリッヒ • シュルスヌスは1927年に初めてアメリカで歌った。その後、1933年まで5回のツアーとシカゴでのヴォルフラムでの出演が続いた。この年にはバイロイト音楽祭でワーグナーの「パルジファル」のアムフォルタスを歌った。第二次世界大戦後、1948年12月にフランクフルトで行われたヴェルディの「椿姫」でジェルモンを歌い、その出演料を新オペラハウスの再建資金に寄付した。シュルスヌスは再び、彼が名声を得る原点となったベルリンに戻り、ティタニア・パラスト[4](1800人収容)での2回のコンサート、1948年6月には再びベルリンの舞台に登場し、お気に入りのリゴレットを演じた。
彼の最後のオペラの舞台は、1951年1月にコブレンツで行われた彼の故郷ブラウバッハのための2つの慈善公演のジェルモンであった。1951年4月中旬、シュルスヌスはハノーファーで最後のリサイタルを行った。
幸福と美に祝福された彼の人生は、心臓病のため突然に幕を降ろした。亡くなる前夜、フランクフルトの自宅の窓辺に立って、シューベルトの曲 "Im Abendrot” をいまだ衰えることのない声で歌った。この曲は、彼が心を込めて愛していた世界への最後のメッセージであったが、その心は1952年6月18日に終焉を迎えた。謙虚さと責任感をもって音楽に接した偉大な芸術家、温かく高貴な人間が、その生涯を閉じたのだ。世界でかけがえのないのないひとりの声が沈黙したのである。
[Stefan Zadejan]
[1] マルキ・ドゥ・ポサ:「ドン・カルロ」ポサ侯爵(イタリア名;ロドリーゴ、フランス名;ロドリーグ)
[2] モンフォール:「シチリアの晩鐘」の登場人物(イタリア名;モンフォルテ、シチリアの総督)
[3] レナート:「仮面舞踏会」提督リッカルドの秘書
[4] ティターニア=パラストは、第二次世界大戦前から1960年代までベルリンの国境を越えて知られていたシュテグリッツ=ツェーレンドルフ地区にある長い伝統を持つ映画館。今日、この建物には、大小7つのスクリーンを備えた近代的な映画館と、いくつかの店舗が入っている
シュルスヌスはリート歌手というイメージで固まっていたので、歌手なら不思議でもなんでもないのでしょうが、オペラのCDは僕には意外でした。それもワーグナーは2曲だけで、ヴェルディの曲がずらりと並んでいます。ライナーノーツにはシュルスヌスのヴェルディが次の世代の歌手たちへの規範になった(ドイツ語圏の歌手に対してだと思います)とありますが、それは真実なのでしょうが、ヴェルディの血があまり感じられません。丁寧に歌いすぎているような気がします。しかし深く良い声なので、ハマっている曲もあります。だけど聴いていると「あれ?、僕はドイツ・リートを聴いていたのか?」と思う瞬間があります。イタリア・オペラをドイツ語で歌唱しているせいではないと思います。
ではワーグナーはどうなのかと言えば、やはりヴェルディと同じです。感情の表出が終始一本調子かと思えば思わぬところで大声になったりします、音符と音符が素直に繋がらないので聴いていてストレスを感じます。
そういう時代だったのだと言われれば、そうでしたかと言うしかありませんが。
Comment On Facebook