MIGUEL FLETA (1893 - 1938)
- Bellini - I Puritani: A te, o cara, amor talora (1923)
- Bellini - La favorita: Una vergin, un angiol di Dio (1927)
- Verdi - Rigoletto: La donna è mobile (1924)
- Meyerbeer - L' Africana: O Paradiso (1927)
- Verdi - Aida: Se quel guerrier io fossi… Celeste Aida (1927)
- Verdi - Aida: Pressago il core della tua condanna (1923)
- Bizet - Carmen: Parle-moi de ma mère (1924)
- Bizet - Carmen: Il fior che avevi a me tu dato (1922)
- Bizet - I pescatori di perle: Mi par d'udire ancora (1927)
- Leoncavallo - I Pagliacci: Recitar… Vesti la guibba (1927)
- Puccini - La Bohème: Che gelida manina (1927)
- Puccini - Tosca: E lucevan le stelle (1924)
- Puccini - Tosca: Amaro sol per te m'era il morire (1923)
- Mascagni - L'amico Fritz: Tutto tace (1924)
- Zandonai - Giulietta e Romeo: Giulietta! son io! (1922)
co-starring - - - Florence Austral (89547) 6, 13 Edna Thornton 6 Lucrezia Bori 7, 14
マヌエル・ガルシア は、スペインで初めて国際的に認められたテノールである。彼は、多くの偉大な芸術家を輩出することになったスペインの有名な声楽学校の創設に携わった。19世紀には アントニオ・アラムブロ、 ジュリアン・ガヤレ、 フランシス・ヴィニャス らのテノールが ガルシアの信奉者として活躍し、20世紀の最初の3分の1には、 アントニオ・コルティス (89043)、ミゲル • フレータ (89002, 89093, 89149), そして ヒポリート・ラザーロ の3人のテノールが、スペイン出身であることを誇った。
上記3人の音楽家の中では、ミゲル • フレータが最も短いキャリアだった。しかし、この短い時間の中で、彼だけがベルカント芸術の世界で最も輝かしい成果を成し遂げられる可能性を付与されたのである。彼は声のコントロールの妙技と卓越した発声技術により美しい音を生み出すことに専念した結果、前時代の歌唱法の帝王と認識されるに至った。フレータの歌唱は恣意的なものであり、技法がないわけではなかったのだが、高音を膨らませたり小さくしたりすることで得た前代未聞の技術と「無尽蔵」のブレス・コントロールは、しばしば彼を音楽的に憂慮されるような自由の中へと迷い込ませることとなった。
彼の録音の中からも、テンポを変えたり音符を伸ばしすぎたりする傾向にしばしば気づくのであるが、疑問の余地を与えないほどの彼の優れた技法を、厳格な音楽的観点から彼の歌唱を聴く現代の人が、フレータの歌唱スタイルに対して厳格すぎる判定をするべきではない。考慮しなければならないのは、フレータが当時の些細な嗜好の要求に応えるべく音楽的な流行を表現していたという事実であり、ある意味では、その嗜好が責任を負わなければならないのである。彼に起きた現象の幾分かは現代の多くの声楽界の有名人にも当てはまるだろうが、フレータの場合は、ほとんど神話に近い崇拝の対象だったのである。
ミゲル • フレータは1893年にアラゴンで生まれた。1897年が彼の誕生年とされることも多いが、この音楽家の周りには多くの伝説がある。彼は質素な環境の出身で、若い頃は羊飼いをしていたようだ。その後、彼は工場で港湾労働者として働いた。ようやく彼の声楽の才能が見出され、バルセロナ音楽院への奨学金を得て、マニュエル・アゾ (Manuel Azò) に師事した。その後、ミラノでソプラノ歌手の ルチア・ペッリチ (Lucia Pierrich) の下で勉強を続けた、彼女は間もなく彼の最初の妻となった。
1919年11月14日。フレータは トリエステ劇場 (Teatro Comunale di Trieste) で「フランチェスカ・ダ・リミニ」のパオロ役で、作曲家リッカルド・ザンドナイの前でデビューを果たした。その歌唱は作曲家に深い印象を与え、ザンドナイの新作オペラ「ジュリエッタとロメオ」 (Giulietta e Romeo) の主役を任された。この作品の世界初演は1922年にローマのコスタンツィ劇場で行われた。イタリアとスペインで数年間大成功を収めた後、フレータはニューヨークのメトロポリタン歌劇団に招かれた。1922年にカヴァラドッシ役でデビューした。この「トスカ」では マリア・イェリッツァ と アントニオ・スコッティ と共演した。
メットでは以下のオペラに出演。アイーダ、リゴレット、道化師、ラ・ボエーム、アンドレア・シェニエ、ホフマン物語、友人フリッツ。
シカゴ歌劇団のメンバーとして、ファウスト、マノン、椿姫、セビリアの理髪師。ミラノ・スカラ座では、トスカニーニのお気に入りのテノールとして、ドニゼッティの「ラ・ファヴォリータ」とマイヤベーアの「ユグノー教徒」に出演した。1922年から1927年にかけては、ブエノスアイレスのコロン劇場で大成功を収めた。ロンドン、パリ、ウィーン、ブダペストなどで客演やコンサートを行った。彼のキャリアのハイライトは、プッチーニの「トゥーランドット」(1926年4月25日、ミラノ・スカラ座)の世界初演で、カラフ役を演じたことである。
その後まもなく、彼の幸運の星は輝きを失い始めた。経営陣との間の対立が原因でメットとの再契約はならなかった。1928年以降、フレータはイタリアでの活動も休止した。今や、彼はスペインで暮すだけであり、地元の政治的発展に影響力を行使しようとしていた。深刻な病気が続き、声の力は徐々に衰えていった。この最後の段階で、フレータはサルスエラに出演したが平凡な成功に終わった。スペイン内戦中、彼は政治的急進派に死刑を宣告されたが、急進派がフレータを捕らえる前に亡くなった。比較的短いキャリアにもかかわらず、フレータは蓄音機録音でたくさんの曲を吹き込んだ。その中の一つ「Ay ay ay」は、当時としてはセンセーショナルな10万枚の売り上げを記録した。
[Clemens Höslinger]
最初の曲「清教徒」の "A te, o cara, amor talora" から、心が動揺するほどの感動です。声も表現力も素晴らしい! ライナーにも触れていますが、当時はこれがディナミークの誇張、テンポの揺れと批評されたことがあったのかもしれませんが、現代の歌手に比べるとおとなしいほどです。批評家というのは今も昔も、なんとしても弱点を見つけたがるものです、大衆が真実を知っています。ベッリーニ、ドニゼッティは、現代の歌手ならフローレスが代表的なテノールですが、フレータはラダメスも歌える声なのです。そんなテノールいますか? (パヴァロッティは歌っていました、パヴァロッティは歴史に残りますね)これを書いている時点で、"A te, o cara" は97年前の声ですが、出来ることならこの時代に行ってみたい。
ところで、ミカエラ (ルクレツィア・ボリ) とのデュエットが異様にテンポが速い、4:07 - - - SP盤の一面に収まるように敢えてテンポを速くして歌ったということがこの時代にはあったのでしょうか? それとも劇場でもこれと同じテンポで歌っていたのでしょうか?
それから、ノーツの冒頭にさりげなく出てくるスペインのテノール歌手「マヌエル・ガルシア」、この人は大物です。ロッシーニはテノール役としてガルシアを念頭にオペラを書いていたようだし、二人の娘は、マリア・マリブラン、ポーリーヌ・ヴィアルド姉妹なのです。姉妹の活躍の場はパリでしたが、この音楽家族の延長線上にフレータが居るのですね。
・・・調べてみました。78rpmレコードには、おもに10インチ盤と12インチ盤があり、より大衆化したのは10インチ盤で、収録時間は約4分でした。