FRANZ VÖLKER (1899 - 1965)
- Wagner - Rienzi: Erstehe, hohe Roma, neu (1933)
- Wagner - Rienzi: Allmächt'ger Vater, blick herab! (1930)
- Wagner - Der Fliegende Holländer: Willst jenes Tag's (1928)
- Wagner - Lohengrin: Atmest du nicht mit mir (1928)
- Wagner - Lohengrin: Höchstes Vertrau'n (1927)
- Wagner - Lohengrin: In frenem Land (1927)
- Wagner - Lohengrin: Mein lieber Schwan (1927)
- Wagner - Die Meistersinger von Nürnberg: Am stillen herd (1928)
- Wagner - Die Meistersinger von Nürnberg: Fanget an! (1928)
- Wagner - Die Meistersinger von Nürnberg: Preislied (1928)
- Halévy - Die Jüdin: Recha, als Gott dich einst (1933)
- Meyerbeer - Die Afrikanerin: Land so Wunderbar (1928)
- Verdi - Trovatore: Daß nur für mich dein Herz erbebt (1928)
- Verdi - Aida: O wäre ich erkoren…Holde Aida (1930)
- Verdi - Othello: Jeder Knabe kann mein Schwert mir entreißen (1930)
- Leoncavallo - Bajazzo: Hüll' dich in Tand nur (1930)
Mitglieder der Kapelle der Staatsoper, Berlin
Dirigenten: Alois Melichar 1 & 11; Hermann Weigert 2, 14 - 16
Julius Prüwer 3 & 12; Manfred Gurlitt 4, 9, 10 & 13
Johannes Heidenreich 5 - 8
フランツ • フェルカーは、ドイツ出身の最も有名で傑出した歌手の一人である。彼はフランクフルト・アム・マイン近郊のノイ・イゼンブルクで生まれ、幼い頃から歌の才能を発揮していた。わずか10歳の時に公共のコンサートで長いソロを歌った。続く数年間は多くの歌のクラブの貴重なメンバーとして、ソロパートを任されることも多かった。オッフェンバッハの高校を卒業した後に銀行に就職したが、軍人として徴兵されたため長くは勤めなかった。
第一次世界大戦では、彼は砲兵隊にいたが、音楽的に才能のある兵士で構成された男声合唱団の指揮もしていた。フェルカーの上官の一人が彼の声楽の才能を見い出し、彼のためにダルムシュタットの大公劇場 (Das Großherzoglichen Theater in Darmstadt) でのオーディションを準備した。フェルカーの歌唱は大きな関心を呼び、劇場支配人から声楽トレーニングの無料コースを提案された。しかし、終戦と同時に戦後の混乱によりこの計画は終わり、フェルカーは戦前の安定な職業に戻った。
数年間、彼は銀行員を続けた。そのうちフランクフルト・ディスコント社の出納係に昇進したが、自由な時間には合唱団で歌い続けた。
彼のキャリアの転機となったのは、1925年にフランクフルト放送によりアマチュア歌手のコンテストが開催され、それに応募したことだった。コンテストは聴衆の反応によって決定され、ヴェルディの「リゴレット」のアリア ”Questa o quella” を歌ったフェルカーが最高得票数を獲得した。これによりフェルカーに多くのオファーが舞い込んだ。指揮者や劇場の演出家が関心を示し始め、最終的には、当時フランクフルト・オペラハウスの監督であったクレメンス・クラウスが、この若い歌手を彼の配下に置いた。しかし、フェルカーはこの時点で歌手の道を進む決心はしていない、ヴェリング教授のもとで1年半勉強した頃、フランクフルト歌劇場から5年間契約のオファーがあった。1926年11月2日、フェルカーはフロレスタン[1]役でデビューした。これがキャリアの始まりで、彼は瞬く間にドイツを代表するテノールの一人となった。
1931年から1935年まではウィーン国立歌劇場(再びクレメンス・クラウスが総監督[2])、1935 年から 1944 年まではベルリン国立歌劇場[3]、1945 年から 1952 年まではミュンヘン州立歌劇場で歌った。26年間の歌手生活の中で、フェルカーは尋常でない数のレパートリーを自分のものにした。ドラマチックで英雄的な役柄、特にワーグナーの主要な役が彼のレパートリーの中心であった。彼はそれまでで最も優れたワーグナーの解釈者の一人であり、特に「ローエングリン」の歌唱は世界的に有名になった。1933年から1942年にかけて、彼はバイロイト音楽祭でワーグナー歌手としての資質を発揮し、ローエングリン以外にも、エリック[4]、ジークムント[5]、シュトルツィング[6]など、最も有名なワーグナー役を演じた。1931年から1934年にかけて、フェルカーはザルツブルク音楽祭で歌い、「コジ・ファン・トゥッテ」のフェランドとして、彼が優れたモーツァルト歌手であることも示した。
ザルツブルクでは、フロレスタン、「エジプトのヘレナ」(リヒャルト・シュトラウス)のメネラウスを歌った。キャリアの中で歌った多くの役の中で特に注目すべきは以下の役である。マックス[7]、ペドロ[8]、皇帝(影のない女)、ラダメス、ドン・カルロ、オテロ、ドン・ホセ、エレアザール[9]、カニオ[10]、ヘルマン(スペードの女王)。
リート・リサイタルでも大きな成功を収め、オペレッタでは聴衆の人気者となった。舞台を離れた後、フェルカーはシュトゥットガルトの音楽大学の教授を務め、その後、故郷のフランクフルトで歌の教師となった。レコーディング歌手としてもフェルカーは、それまでの歌手がほとんど達成したことのないような人気を博した。彼の歌唱芸術はオペラ歌手とリート・リサイタルとして保存されているが、軽音楽の録音はほとんど数えるに当たらない。フランツ • フェルカーの声は、高貴で緻密なクオリティと高度なコントロール、そして洗練されたレガートを持っていた。
[Clemens Höslinger]
[1] フロレスタンは、オペラ「フィデリオ」の主役テノール(囚人)
[2] 偶然ではなく、クレメンス・クラウスが自らの赴任先に、共にフェルカーを連れてきたというのが正しい
[3] ここでもクレメンス・クラウスが音楽総監督の地位 (1935 - 1936) にあった
[4] エリックは「さまよえるオランダ人」の登場人物。ゼンタ(ダラント船長の娘)の恋人
[5] ジークムントは指環の中で「ワルキューレ」だけに登場:ジークフリートの父
[6] シュトルツィング:フランケン地方出身の若い騎士(ニュルンベルクのマイスタージンガー)
[7] マックス:射撃の名手でスランプに陥っている若い猟師(魔弾の射手)
[8] ペデロ:ダルベール「低地」の登場人物:ずっと山に住んでいた男
[9] エレアザール:アレヴィ「ユダヤの女」:ユダヤ人の金細工師
[10] レオンカヴァッロの「道化師」、劇中ではパリアッチョ
ワーグナー歌手は本当に尊敬に値しますね。どんな体力でどれだけ息が続くのだろうと思ってしまいます。フランツ・フェルカーは間違いなくトップクラスのヘルデン・テノールでしょう。ワーグナー歌手としての資質だけでなく声が美しく清らかで、それがどこまでも伸びていく。やはりローエングリンがいいですね。
そして単に声を張り上げるだけでなく、「ユダヤの女」や「アフリカの女」では繊細なソット・ヴォーチェも聴かせてくれます。
また、ヴェルディもドイツ語歌唱ですが全く違和感を感じさせない素晴らしいものです。ただ、テノーレ・ロブストとヘルデン・テノールにはかなりの違いがあると思います。端的な例として現代の歌手、クラウス・フローリアン・フォークトはローエングリンは歌いますが決してオテッロは歌わないと言うことです。英語ではどちらも heroic tenor ですが、日本ではワーグナーの主役テノールはヘルデン・テノールとして別のカテゴリーになりますね。
「リエンツィ」はまともに通して聴いた経験がないのですが、ほとんどのワーグナー・テノールはアルバムに「リエンツィ」のアリアを入れます。フェルカーも2曲歌っていますが、"Allmächt'ger Vater, blick herab!" は甘い声が魅力で、最初からコロっとやられます。
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